10/19/2009

Gotoh Yoshiko

後藤芳子
 ダンスホールやキャバレーで踊るための音楽だったスウィングジャズ。それが聴くためのモダン・ジャズと呼ばれる「芸術」に昇華したのは50~60年代のことだ。冷戦時代の到来を反映した文学のビートニク、映画のヌーベルヴァーグ、そしてバップと呼ばれるジャズの革命が始まった。

後藤芳子(ごとう・よしこ)1933年東京生まれ。米国で活躍するギタリスト増尾好秋の父、増尾博のグループに招かれデビュー。ジャズボーカル一筋に58年。早くから米国で武者修行し、巨匠レイ・ブラウンとの日本人初の共演作もサンフランシスコ滞在中にロサンゼルスで録音。新作は盟友の佐藤允彦が音楽監督を務めた。後進の育成にも長ける。
 まさにその時期、1951年。18歳の後藤芳子は、銀座でデビューした。
 「大学生の兄がハワイアンバンドを持っていたので、高校の時から歌わせてもらっていました。ナンシー梅木さんに憧れて、ドリス・デイなどをコピーしたものです」
 たちまち進駐軍キャンプで評判になった。
 ファンの将校からプレゼントされたジューン・クリスティの歌に刺激を受け、スウィングからモダンへの大きな変化を感じ取った。
 「それまでになかったコード(和声)の使い方に、とても魅力を感じて、エラ・フィッツジェラルドやアニタ・オデイを夢中でコピーしました。新しい時代が始まる予感のようなものがあったように思います」
 そして、同時期にモダンジャズを追求し始めていた渡辺貞夫(サックス)、故人の宮沢明(サックス)や富樫雅彦(ドラム)ら、日本のジャズ界に大きな足跡を残す革命戦士たちとの交流を深めて行く。
 ジャズが大衆の娯楽から芸術に進化する。その過程を女性シンガーとして生きた後藤は、華やかさやスターダムとは無縁だった。
 「とにかくあの頃の彼らは格好よかった。お金も仕事も無く、みんな貧乏でしたが、がむしゃらに新しいものを生み出そうと、必死にもがいていました。有名な『モカンボ』や『銀巴里』でのセッションにも行っていましたが、彼らは自分たちの演奏に夢中で誰も歌わせてくれなかったわ」
 そう言って笑う。
 交流を続けた八木正生(作編曲・ピアノ)、山屋清(作編曲・サックス)、佐藤允彦(作編曲・ピアノ)らも日本のジャズを世界的なレベルに押し上げた戦士たちである。八木と山屋はこの世を去ったが、佐藤との交流は今も続いている。
 「自分で考える歌が40%、バックのサウンドが60%です。音で支えてくれるミュージシャンのサウンドから導かれて、私の音楽が完成します。だけど、本当に彼らは厳しかった」
 後藤が受けた刺激や協力もさることながら、チャレンジを恐れなかった革命戦士たちを励まし、支えたのもまた事実である。
 「ウルサい女と思われながら、『ちゃんとしなさい』なんて叱ってました。生活はだらし無いところもあったけど、音楽にはみんな真面目で真剣でした。彼らのおかげでいまの私があるんです」 
 「ヨッチン」と呼ばれて革命戦士たちから愛された後藤。そのミューズの歌には時代をともに駆け抜けた同志たちへの尊敬と思慕がたくさん詰まっている。(高梨義之撮影)  


「フォー・ユア・ロンリー・ハート」
IMP-3302 発売予定日:10月10日東京サウンドシティ企画 (問い合わせ 03-5387-8823)70代にしてチャーリー・パーカーやビリー・ホリデイのレパートリーを取り上げた渾身の一作。

瀬川昌久
1924年東京生まれ。東大卒。1950年に銀行員としてニューヨークに駐在しチャーリー・パーカーのカーネギーホールコンサートを体験。長年に渡りジャズ・レビュー・ミュージカルの評論・企画・司会に従事。月刊「ミュージカル」誌編集長、くらしき作陽音楽短期大学講師。主な著作・「舶来音楽芸能史~ジャズで踊って」(清流出版)、「日本ジャズの誕生」(大谷能生共著・青土社)
(2009年09月24日 読売新聞)

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