6/29/2010

日本小説を読む会 

読書会ノススメ
「日本小説をよむ会」のこと
  國重 裕

 いまから紹介するのは、京都で400回以上も続いた日本小説の読書会の話である。

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 1958年、当時ベストセラーだった五味川純平の『人間の条件』の人気の秘密を分析すべく、京都大学人文科学研究 所(人文研)のメンバーを中心に自由な討論会を開いたのが、その後38年間つづくことになる「日本小説をよむ会」(以下「よむ会」)のはじまりである。当 時の京都は、「日本映画を見る会」、「ぬーぼーの会」(二十世紀小説を読む会)、「バルザックを読む会」など会が百花繚乱の状態だった。その核にルソーや アランなどの翻訳でも知られる桑原武夫を中心とする人文研の共同研究があったことは大きいが、よむ会は、早々に研究家肌の人は顔を出さなくなり、かわって 小説好きが集まった。以後、1996年、第410回例会で幕を下ろすまで、月に一度、明治から現代にいたるまでの日本小説を一作を取り上げ、担当者の報告 のあと自由な討論を行うスタイルでつづいた。メンバーには多田道太郎、高橋和巳、杉本秀太郎もいたが、会社員や主婦も参加していた。

 読書会というと身構える人もいるかもしれないが、よむ会には日本文学の専門家はいなかった。よむ会はけっして研究 会、勉強会ではなかったのである。文学史に寄りかかった「高尚な」発言は無視され、素人の感想、非常識な発言が歓迎された。よむ会が別名「笑う会」と呼ば れたゆえんである。このようなスカタン精神を大いに鼓舞する姿勢は、冨士正晴らの神戸の同人誌『VIKING』に通底する。

 よむ会では、「聴講」は許されず、積極的な発言が求められた。既成の評価にとらわれず、自分の感じたことを自由に 述べる精神が、よむ会を支えた。よむ会の「憲法」には「笑わせ、笑われることこそ美徳である(会のノンシャラン精神)」とある。思ったことは忌憚なく、 はっきり口に出して言う。ある作品(近年ベストセラーになり、吉永小百合主演で映画化された作品だ)については、「ななめ読みしても差し支えなかった」、 「まとめて宅急便で作者に送り返そか」といった具合に手厳しい。もちろん無責任な放言が許されるわけでもない。「アンタ、なに言うてんの」、「ほんまにそ れでエエんか?」とばっさり斬られることもある。大げさな作品論ではなく、「光る細部」にまなざしを注ぐ読み手が多かった。

 会報を作るようになったのは1960年、会の発足から約二年が経過してからである。会報は、報告者の読み筋を示し た小文と、討論の記録、エッセイ、雑文よりなる。記録には録音機のたぐいは一切使用せず、記録者が当日のメモを基に作成した。記録に正確さ、公平さは保証 されなかった。(これも『VIKING』の例会記と同じ)。たとえば1989年1月の第329回例会で取り上げられた村上春樹『ノルウェイの森』の討論記 録の一部を紹介しよう──山田「このセックス描写の稚拙さは意図的だと思うが、どうしてこんな」植田「あんなん最近の少女マンがにようけあります」山田 「へえ、こんど貸してね」本田「荷風の『四畳半…』読むとマスターベーションしたくなるが、これを読むとだれとでもヤリたくなる」(と大胆な告白をおこな い、ヨーガ行者のカンロク(?)を示す)──といった具合である。主に山田稔がペンを執った討論記録を読むのも、会の楽しみの一つであった。会報には、メ ンバーのほか、地方にも埴谷雄高、黒井千次ら「愛読者」が多数存在していた。

 初期の会報では、その名も「のんしゃらん」コーナーがあり、メンバーが匿名で戯文を草し、作者の当てっこを楽しん だ。たとえば1960年の会報8には「ね小便と文学の関係」というタイトルのものがある。「こころみに、今あなたのそばに坐りここぞとばかり(あとで痔の いたむのも忘れてサ)笑っている男性もしくは女性を問責してはいかが。君が厭わしくも甘美なる、かの夜尿症は、芳紀そも何才の暁に及びしかと。また後遺症 は如何と。暴露されたる現代文学青年の裏面地図にあなたは驚倒し、そしてむずむずしませんか。イヤヤワ、コノヒトラ。イマデモオーバーノ下ニ湯気コモッテ ルノチヤウヤロカ。(後略)」作者は「何風」とある。ちなみにこの回取り上げられた作品は井上光晴の『死者の時』であった。

 二次会は、「『会』のもっとも重要な部分である」とされた(「一次会のみの喰い逃げは恥ずべきである」)。ここ で、一次会で尽くせなかった議論が、さらに蒸し返され、酒の勢いもかりて、大論争が繰り広げられた(もちろん、けしかけ、冷やかし、笑っていた者がいたか らである)。会場は、時期によって異なるが、最終的には川端二条にある居酒屋の離れで行われた。店では、品書きから三品まで選ぶことができた。飲み物は酒 類だけで、これは無制限に注文することができた。ジュースなどは認められなかった。勘定の支払いは平等に割り勘にしたので、飲めない者にとっては一種の罰 金である。もちろん、三次会、四次会と場所を変えて駄弁りつづけたこともあった。山田は自分が注文した三品と一人頭の勘定を丹念に会報に書き残した。

 非公開で、原則として新入会員を認めないこの会に筆者がもぐりこんでいたのは、よむ会の最後の三年間だけだった が、会がこれだけつづいたのは、ひとえに「ノンシャラン精神」のおかげだと感じる。年齢はもちろん、職業や性別に関係なく、ただ一つの小説を前にクリクリ と読み筋を競い合う遊び心が会を支えたのだ。会の終了とともにまとめられた「日本小説を読む」上下二巻(400回分の報告者の報告と討論記録を収録)を読 むと、会の発足時から安保闘争、大学闘争など「政治の季節」を経て、バブル期にいたるまで、時代の空気を微妙に反映させつつも、最後までノンシャラン精神 を貫いたことが分かる。ともすれば胡散霧消しがちなこの精神を保ちえたのは、実質的な会の世話人だった山田稔の功績だろう。

 よむ会が幕を下ろした理由が会員の高齢化だけではなかったことはいうまでもない。会を生み出した精神風土から遥か 遠い今日、まったく同じような読書会が可能かどうかも分からない。その意味で「日本小説をよむ会」は時代の賜物であり、京都という土地柄ならではの読書会 だったともいえる。とはいえ、よむ会のメンバーの有志が「日本小説を楽しむ会」を50回ほど重ねていること、また筆者自身が「世界小説をよむ会」を主催し ており、なお活発な議論がつづき、笑いが絶えないことも書き添えておきたい。

● 國重 裕(くにしげ・ゆたか)
1968年京都生まれ。龍谷大学講師、作家。共著に『中欧─その変奏』(鳥影社)、詩集に『彼方への閃光』(書肆山田)ほか。

6/20/2010

疑う力


ある人が、民衆というか、
市井の人というかが権力と戦う武器として、「嘘をつく」「疑う」「逃げる」の三つをあげているんです。こ れは道徳教育的には一番だめなこととされることですよね。でも、わたしはやっぱりそこにしかないような感じがします。疑う力をもう一 回復活するしかないだろうと

6/19/2010

Kenneth Tarver


Fra Diavolo by codytomaswilliams.

Kenneth Tarver has his makeup done for the main lead role closing night of the Opera Fra Diavolo, playing at the Opera-Comique in Paris, France. February 4, 2009./©Cody Williams.

6/07/2010

パリ 山田稔


この街では、住人のだれもが異邦人として、孤独をおのれの影のようにひ きながら暮らしていた。一方では他人とのかかわりを慎重に避け、たがいに警戒し合ってすらいるそれらの人々が、しかし他方では、他人か
らの呼びかけをひそ かに期待してもいることを、やがてわたしは知るようになった

6/01/2010

パリ 山田稔

パリの異邦人                                            

                                 

 昨年暮れに出た島京子のエッセイ集『書いたものは残る――忘れ得ぬ人々』*1は、富士正晴高橋和巳島尾敏雄ら 「VIKING」同人を初めとする文学仲間たちとの交友 録で、その冒頭に登場するのが山田稔である。とはいってもこれは一九六一年の日記に出て くる、当時の京都大学学年 一の秀才で(二番が高橋和巳、四番が杉本秀太 郎であったという)、「なかなかのハンサムで美声」であった若き日の山田稔の印 象的なスケッチであるけれども、わたしが思わず膝を打ったのは、著者がかつて追分の民宿でひと夏を過ごした折にたまたま同宿していた平岡篤頼の言 葉に、である。

 平岡篤頼は彼の地でゾラの『ナナ』の翻訳に勤しんでいたのだが、ひと足先に『ナナ』の翻訳を刊行した山田稔に談たまたまおよび、「いやあ、うまいんだなあ、山田稔さんの“ナナ”は。実に自然で、いきいきしてて(略)下町のようすも、山田さんの手にかかる と、まるで子供が初めて見たものに、感動するときのように、彫りが深くなっているんだもの。さすがだなあ――」と感歎しきり。さらに山田稔の創作についても、

「どう思います? たとえばさ、資質まるだし、という作家もいますね。エネルギー主義のような人もいる。山田稔さんのものは、そんな力みなんかと関係なく、至極モーションの少ない自然体なんだけど、どうし てあんなに、いきいきとしか云いようがない、人や街のたたずまいが描出されるんだろ。ぼくなんか、とてもおよばないなあ――」

 島京子は「山田さんが創り出した文体が、ものをいうのでしょ、それにフランス的エスプリ」と 応えるのだけれども、この応答にいわば山田稔論のエッセンスが集約されているといってい いだろう。すなわち――、山田稔の描く人や街のたたずまいは実に自然で生き生きとしてい て、それはかれの文体とエスプリのしからしむるところにほかならない、と。ようするに、山田稔論 を試みるものはだれもがすべから くこのテーゼをいかに肉づけすべ きかに腐心することになるのである。


 山田稔は一九六六年に初めてパリに滞在する。パリから航空箋で 書き送り、「フランス・メモ」の総題で「VIKING」に掲載された作品を中心に纏められたのが最初の作品集『幸福へのパスポー ト*2であ る。古い街のたたずまいやそこに暮す人々との交流をえがいた作品はいずれも小説ともエッセイとも断じがたく、山田稔自身あとがきで小説という形式にしばられずに自由に書いた、小説よりも「散文芸術」が念頭に あった、と記しているように、たんに散文と呼ぶのが似つかわしい。集中の一篇「残光のなかで」は、バルザッ クモリエー ルの墓のあるペール・ラシェーズの墓地、ゾラの墓があるモンマルトルの墓地を訪れたさいのささやかな挿話をプロローグに、ゾラの別荘で催された 「ゾラをしのぶ会」の講演に招かれたエレンブルグのポルトレを印象深く描き出す。

 エレンブルグはなまりのあるフランス 語で、ゾラとチェーホ フとは異なるタイプの作家だが二人には共通点がある、それは二人とも真実の味方であったということで、社会的良心がなければすぐれた芸 術家とはいえない、と熱を込めて語る。講演が終わり庭に出た「わたし」は、ひとり所在なげに立っているエレンブルグの姿をみとめ、かれのはいてい るだぶだぶのズボンに目を奪われる。


 「しかもそのズボンはだぶだぶであるだけでなく異常に長く、靴のかかとからはみでて、すくなくとも五センチは地面に垂れ下っているのであ る。(略)なおしばらく観察をつづけるうちに、わたしはこの老作家の無表情とみえた顔が、ときおりしかめられるのに気づいた。彼は不機嫌のようだ。なぜだ ろう。あの長すぎるだぶだぶのズボンのせいだろうか。いや、そうではあるまい。わたしには、エレンブルグがあの異様なズボンをはいているのはわざとのよう な気がしてくるのだった。彼の孤独な姿があらわしている何か依怙地なもの――あのズボン は、現代の細いスマートなズボンどもへの当てつけではないだろうか。」


 山田稔は、いや「わたし」はだぶだぶのズボンに、そう、あまりにも些細な 事柄にかかずらいすぎていると思われるかもしれない。だが「わたし」の観察はさらに執拗をきわめ、老作家の表情に「なにか気味の悪いもの」を嗅ぎつけずに いない。それはかれの「きつい眼」からくるもので、その眼はスターリ ン時代の激しい権力闘争の場を切り抜けてきたかれの処世に由るものではないかと想像する。「わたし」がゾラに惹かれるのはエレンブルグとは異なる 暗さがあるゆえにだが、エレンブルグもまた、チェーホフやゾラに惹かれるのは、「社会正義の味 方云々ということよりもむしろ、ゾラのもつ暗さ、おそらくはあらゆる文学者に共通の暗さにエレ ンブルグ自身がひそかな共感をいだいているからではないだろうか」と思う。「わたし」の観察眼は、だぶだぶのズボンといった一見些細な事柄の背後に二十世紀の歴 史の暗部を透かし見る。閑散とした庭にひとり佇むエレンブルグと、庭園の中央に立つ残光を浴びたゾラの胸像とをツーショットにおさめ、短篇は読者の胸に重 い余韻を残してしずかに幕をおろす。

 アルフォンス・アレー(山田稔訳『悪戯の愉しみ』がある)の故郷を訪ねた 「オンフルールにて」でも、「わたし」はアレーの表情に陰惨なものを読み取り、その地で出会った老画家の孤 独に反応する。『幸福へのパスポート』へ寄せた埴谷雄高のこ とばがこの本の、そして山田稔の散文の特長を語り尽しているといっていい。


 「山田稔の作品のなかでは、窓も部屋も樹の枝も広場の石畳も、そして、ひ とびとも、すべてが孤独のなかで他物から親愛と交感をもとめて、静かに息づいている。こ の屈折豊かで明晰な文章から、私達は、人生とは、事物とのまぎれもない関係であり、そしてまた、事物との関係をさらに越えようとする心のさまざまな動きに ほかならないことを、繰返し啓示されるのである。」


 山田稔は、異邦の地で情緒の伝達がままならぬ孤独に屈しないためには書くことが必要だった、とあとがきに記している。「それはほとんど生理的な必 要だった。書きながらわたしの身体はふるえた」と。そうした精神状態がことさらに他者の孤独に 感応させたのだろう。書くことによって精神の危機を乗り越えたモ ンテーニュの『エセー』にどこか通い合うような気がするのもそのせいかもしれない。

 七九年七月、パリでの二度目の滞在を終えて帰国した山田稔は、一年後に雑誌「文芸」誌上で短篇連作「コーマルタン界隈」*3を開始す る。ここでも「私」が出会い、仔細に観察する、パン屋のおかみ、ポルノ映画館の支配人、犬 を連れた娼婦らは、だれもが胸の底にそれぞれの孤独を抱えた存在にほかならない。連載が 終了した翌々月に同誌に発表したエッセイ「わが街コーマルタン」で、山田稔は次のように 書いている。


 「この街では、住人のだれもが異邦人として、孤独をおのれの影のようにひ きながら暮らしていた。一方では他人とのかかわりを慎重に避け、たがいに警戒し合ってすらいるそれらの人々が、しかし他方では、他人からの呼びかけをひそ かに期待してもいることを、やがてわたしは知るようになった。」


 呼びかけ(call)に応答すること、そして書くことによってかれらを思い出し/呼び戻すこと(recall)、山田稔の散文が読む者に親密な感情を呼び起こすのは、おそらくはそうした孤独な者どうしのセンチメントの交流がひそやかに息づいているからにちがいあるまい。

                        (『國文學』平成二十年四月臨時増刊号掲載)