12/24/2010

山田稔

写真

山田稔

■死者の記憶、鮮やかに描いて

 冒頭のエッセーにある「すがれた老人」という言葉に心をつかまれる。作家の尾崎一雄が42歳の加能作次郎の姿をこう形容したそうで、すがれるとは盛りを過ぎ衰え始めたの意味である。加能の作品を読み返したくなったとき「胸の奥底にこの一語がひそんでいたような気がした」と山田さんは書く。

 パリのマビヨン通りにあるレストランの地下に居候していたアナーキストの椎名其二。「夏草」で芥川賞候補にもなるが、文壇からはぐれた前田純敬。ついぞ「時めく」ことなく、その名も忘れられつつある死者の姿を、読む人の前に鮮やかに描き出す。「私の関心はほとんど〈すがれた〉ところに向かうようです」と山田さん。

 とくに前田とのやりとりが印象に残る。面識もないのに週に何度も手紙が届き、ある時は文字どおりの音信、声を吹き込んだテープまで届いて辟易(へきえき)する。屈折したところのある人物像が刻まれるが、前田の死後、同じ郷里の女性が彼の著書を出すため尽力する美しいエピソードも紹介される。

 「書きたいことを書きたい時に書きたいスタイルで。その三つが文章を書く条件で、なるべく守るようにしてきました」と言う。本書に収めたのも、締め切りのゆるやかな同人誌や出版社が出す小雑誌に寄せたものだ。最後の「転々多田道太郎」は、長いつきあいの友人だけに思いをどう表していいか書きあぐね、寝かしたり削ったりを続けていた。多田さんの追悼を書き上げたら本を出しましょう、というのが版元との約束だったそうだ。

 エッセーとして書かれた文章が不意に小説的展開を見せる。「小説となって腐ってゆく寸前の」「とうてい小説とはなりえない現代の魅力」。かつて多田さんが山田さんの本を評した言葉が文中で引かれる。「自分でも忘れていましたが、今思うと、ずっとこの言葉を目印に書いてきた気がします」

11/12/2010

大逆事件

今週の本棚:田中優子・評 『大逆事件--死と生の群像』田中伸尚・著

 (岩波書店・2835円)

 ◇「お国に殺された」各地の非戦論者

 大逆事件--私があまり考えたことのないこの事件に関心をもったのは、評論家の佐高信さんの、テレビでの発言だった。今年二〇一〇年は「日韓併合一〇〇年ですね」という話題の時に、「大逆事件一〇〇年でもあります」と言われたのだ。私はその言葉で、国家が外に向かって拡大して行こうとするとき、必ず内に向かって強い力で弾圧する、という構図が浮かんだ。近代国家の宿命である。外への力と内への力は同時に観察しなければならない。今年は確かに、大逆事件から一〇〇年の年である。これからのために、今年読んでおくべき本であろう。

 私のような、この事件の専門家でも近代史の専門家でもない者にとって、本書はじつにわかりやすく、理解の助けになる。おおまかに言って三つのことが見えてきた。ひとつは、当時日本全国に散らばっていた、国家にとって不都合な人々が、何のつながりも集団的結束も無いところで、任意に集団とみなされ、一網打尽に死刑に追いやられた、という事実である。このことには驚いた。何らかの運動体が形成され、何らかの目的とその遂行手順があったと思っていたからだ。たとえば森近運平は岡山の農業改革者で、ガラス温室を使った高等園芸を研究していた。宮下太吉は長野県安曇野市の熟練機械工だった。内山愚童は、箱根の曹洞宗の僧侶だ。大石誠之助(せいのすけ)はオレゴン州立医科大学を卒業し、カナダで外科学を学び米国で医師をしていたが、郷里からの要請で熊野新宮に戻って開業し、その後さらにボンベイ大学で学んだ医師であった。高木顕明(けんみょう)は新宮の真宗大谷派の僧侶で、部落差別の解決に尽力していた。古河(ふるかわ)力作は東京豊島区の花卉(かき)栽培会社の植木屋で、柔和な小さな人だったという。そして幸徳秋水は高知県中村の人で、新聞記者であったが、勤めていた『万朝報(よろずちょうほう)』が日露戦争開戦賛成派になったために、堺利彦とともに退社した。そういう非戦主義者だった。

 数例を挙げただけで、散らばりかたがわかる。そして本書では、このひとりひとりの人間としての姿が、生々しく見えてくる。堺利彦は事件の翌年、遺家族訪問の旅に出た。本書の記述はその後を追うように書かれている。読む方も、まるで事件直後に足で歩きながら、この出来事を検証しているような心持ちがしてくる。全国に散らばる彼らに共通しているのは、非戦論者であった、ということだけだった。著者の表現に従うと、社会は「非戦・平和の徒」に「逆徒」というレッテルを貼(は)ったのである。

 二つ目にわかったのは、昨今の地検の証拠ねつ造のごときねつ造が、おおはばにおこなわれていた、という事実である。「二六人の大半は、国民には知らされないまま闇の中で勾引(こういん)され、起訴され、判事らのつくった物語の中にはめ込まれ、演じさせられた」と著者は書く。その具体例をいくつも、本書の中で読むことができる。このようなことは、少し前であれば「戦前の日本ならそうであったろう」という感想の域を出なかったかも知れない。しかし検事によるねつ造とえん罪の創造が、現代においてもおこなわれている事実を知ってしまった我々は、幸か不幸か大逆事件を身近に感じられる位置に立ったのである。非戦論者である私は、「聞取書」がどのように作られるか、本書でしっかり勉強した。

 三つ目にわかったのは、「逆徒」というレッテルが貼られたが最後、何十年ものあいだ、今でさえ、生まれ故郷では疎まれる存在になる、という事実である。本書は岡山県高屋村にいたひとりの少女の物語から始まっている。戦後の一九四六年、国民学校六年生であった少女は父親の本棚の資料にあった「森近運平」に興味をもつ。卒業の論文を書くにあたって、町の人々に運平さんのことを聞いた。しかし誰一人として答えてはくれなかった。たったひとり「お国に殺された」と言った人がいた。運平の妹であったことが、後にわかる。

 ところで、この全国各地で数百名が検挙され、うち二六人が有罪判決を受けたこの事件は、なぜ「大逆事件」と呼ばれるのか。それは当時の刑法に第七三条「大逆罪」があるからだ。七三条は、天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子、皇太孫に対して危害を加えた者、あるいは加えようとした者は死刑にする、と定めている。危害を加えようとしたかどうかを「聞取書」で作成すれば、何もしていなくとも死刑にできる。この法律は一九四七年一〇月まで残っていた。

 であるから、これだけが大逆事件ではなかった。一九二三年に難波大助が後の昭和天皇を狙撃した「虎ノ門事件」、一九二四年に皇太子の婚礼に爆弾を投げ「ようとした」とされた「朴烈・金子文子事件」、一九三二年に李奉昌が昭和天皇の馬車に手榴弾(しゅりゅうだん)を投げた事件。さらに三つの大逆事件が起きていたのである。

 本書には、大逆事件に関する著作の発売禁止や書き直しの事実も詳しく書かれている。メディア統制も一種の大逆事件と言っていいだろう。その後の再審請求、明らかにするための会の発足など、この事件を風化させない様々な動きも、知ることができる。


11/09/2010

タミーノとパミーナ

扉の前で、黒いマントを片手でさっと、片側の肩に翻して鮮やかな紅い裾回しと言えなくもない裏地を見せた係りの若い碧眼の美しい男に、私はチケットを見せ渡し、すこしちぎってもらってから返してもらいホワイエに行く。
バーのカウンターに立つ、崩れてしまう前の一瞬の輝きを持ってそれを誇示するけれど愛想もなかなかの若い女にコーヒーを注文する。ソーサーとカップを受け取り、いつだってそそっかしくて割ってしまうからそれを大事に持ちながらひとり、三人が座れるテーブルと椅子を部屋の端に見つけ座る。
ひとくち、ふたくち啜るうち部屋は今にもパーティが始まる会場のように手にワイングラスやプレッツェルを持った人たちであふれた。

9/26/2010

夏圭子

それでも夜中に電話がつながると、
「どうしてるの?」
「うん、今日、韓国から帰って来た」
「エーッ、貴方、韓国になんで行くのよ」
「うん、ちょっとね」
何を聞いても、うんちょっとばかり。その頃、あの占い師のことなど、頭をかすりもしなかった。

それから、今年で十年も過ぎる。息子は今では急に言葉を発する時、興奮したりした時、先に出るのは韓国語である。
韓国に伝説のバンド「サヌリム」にギタリストとしてメンバーになっている。
そこへ到ったただ事ならぬ人生はいつか―息子の口から話す機会もあるだろう。
columu08022204.jpg2005年、八年ぶりに復活する“サヌリム”の韓国ライブが、韓国ソウルのジャンチュン体育館で5月の麗らかな午後行われた。
円形の舞台は、息子の見えやすい家族席に息子の尊敬する“サヌリム”リーダーギタリストの“キム、チャンワン”氏が席を用意してくれた。
待ちに待っていた熱狂的ファン達がうねっていた。開演と同時のものすごい大音響の中、舞台に立ち、強烈なライトをあびている息子を見た時、ふとずっと前に、聞いたあの占い師の言葉がすべて、よみがえった。
ああ、このことだったのか。ひとつのくるいもなく、バシィッとつじつまが合った。
後で思った事だったが、“秀”の名前と生年月日を知った後の、あの長い“間”は、あれから何ヶ月かして“秀”の命が尽きる事を、知っていたのかもしれない。

「私、いつまで、生きられますか」
あれからずっと私は、すぐ側に“秀”の気配を感じている。


■プロフィール
夏圭子
17歳の時、俳優座養成所へ。芸名の「夏」は8月生まれということ、「圭子」はテレビデビューの際の役名に由来。
円谷プロが1969年に製作した『恐怖劇場アンバランス』第6話「地方紙を買う女」(松本清張原作)や、1968年の映画『若者たち』に出演するなど活躍を続けた。後に『太陽にほえろ!』』のゴリさん役でお馴染み、竜雷太と結婚し芸名を「桂子」に変更。
以降も数々の映像作品に出演し人気を博す。近年、メディアへの露出が無かった彼女だったが『恐怖劇場アンバランス』Vol.3特典映像では、彼女の現在のインタビューを観ることが出来る。

長谷川陽平
1971年生まれ。父に竜雷太、母に夏圭子、を持つギタリスト。
韓国を代表する国民的ロックバンド「サヌリム」の音楽に衝撃を受け、1995年に渡韓。
10年に及ぶ熱烈なオファーで、ついに2005年、「サヌリム」の正式メンバーとして加入が決まる。
2006年には、韓国で200万人を動因した大ヒット映画「死生決断」のサウンドトラックを製作。
アジア音楽に造詣も深く、コラム執筆、ラジオDJなど、文化人としての活動も行いながら、シンガーのプロデュースほか、韓国を拠点に幅広い活動を続けている。

夏圭子

占い師を勝手に想像していた私は、普通の“おっちゃん”に拍子抜けの感じだった。通訳を名乗った人が、カバンの中から白いB4位の紙とボールペンを出し、私達の前に置いた。見てもらう順番は、前もって決めてあった。
まず、“秀”。B4の紙に、言われた通りに生年月日と名前を書き、その人の前にさし出した。その人はじっと紙を見ていた。不思議な長い“間”があった。
その長い間に耐えきれず、あせる口調で口火を切ったのは“秀”だった。
「アタシ・・・いくつまで、生きられますか?」
その頃、色々な問題を抱えていた“秀”のその質問は、ザワッ!と皮フが泡立つような真剣な響きがあった。その人は静かに目を上げると、じっと“秀”を見つめた。
訳のわからない“間”はずっと続いていた。B4の紙にもう一度目をおとし、通訳の人にボソボソと何か言った。
“七十歳位までは、生きますよ”と優しい声で通訳は伝えた。
あと、色々な事を聞いていたが、私の頭の中にはその質問だけが残った。
columu08012502.jpgもう一人が済み、そして私。
結婚は三回するって。ギョッ!年下の男に気をつけろ!って。まあ、こんなもんだって感じの、たいした事は言わない。後は忘れてしまう程度のことだった。
もうおしまいか―と思った時、その人が言った。
「貴女、子供がいるでしょ」
「えぇ、息子がひとり」
息子の名前、生年月日をB4に書いた。
「あっ!ブタの年、ブタの月、ブタの日生まれ」
「えっ?ブタだって!」
皆が、笑った。ブタとは、韓国では猪の事。笑いをさえぎるようにその人は続けた。
「何か好きな事、得意な事、ありますか?」
「浪人中なのに、ギターばかり弾いてます」
「ああそれ、ギターで一生生きてゆく。貴女、息子にかけなさい。息子の役に立ってあげなさい。肉をなるべく控えて(友人の焼肉屋で、そう言った。)野菜中 心で、酒には気をつけて、酒で身体をこわす、よ。ポンポンといいリズムで、続ける。年をとる度に、良くなるよ。本当にいい人生だ。素晴らしい運勢を持って る」
そして―
「この子、韓国に来ます」―と言い切った。
「エーッ!韓国?」
今でこそ、韓流などとゆう状況もある。その頃は、韓国は近くで遠い存在だったから突拍子もない感じで。
「ヘェーそうですか」ってな感じで聞いていた。
ブタでもよさそうな人生で、特別、悪いことも言われずホッとしていた。

それから何ヶ月かたって夏の盛りに突然“秀”が死んだ。
くも膜下出血だった。(続く

夏圭子

夏圭子 プロフィール
column08101702.jpg17歳の時、俳優座養成所へ。芸名の「夏」は8月生まれということ、「圭子」はテレビデビューの際の役名に由来。
円谷プロが1969年に製作した『恐怖劇場アンバランス』第6話「地方紙を買う女」(松本清張原作)や、1968年の映画『若者たち』に出演するなど活躍を続けた。後に『太陽にほえろ!』のゴリさん役でお馴染み、竜雷太と結婚し芸名を「桂子」に変更。
以降も数々の映像作品に出演し人気を博す。近年、メディアへの露出が無かった彼女だったが『恐怖劇場アンバランス』Vol.3特典映像では、彼女の現在のインタビューを観ることが出来る。

8/19/2010

Bistro Clovis

Last Year , September

7/01/2010

富士さんとわたし

今週の本棚:井波律子・評 『富士さんとわたし--手紙を読む』=山田稔・著

 (編集工房ノア・3675円)

 ◇遊び心の交友が放つ文学的磁場

 作家・フランス文学者の山田稔が、久坂葉子、桂春団治などの評伝で知られる作家富士正晴(一九一三-一九八七)とやりとりした書簡をベースに、富 士正晴の文学と生き方を細やかに描きつつ、自らの軌跡をたどった異色作である。交換された書簡(葉書が多い)は山田稔から富士正晴あてが一九四通、富士か ら山田あてが一六九通、合計三六三通。期間は一九五四年四月から八七年二月まで約三十三年間。これほど長期にわたって交わされた大量の書簡が双方におい て、ほぼ完全に保存されていることに、まず驚嘆してしまう。

 両者の交友は、一九五四年当時、京大人文研の助手だった著者が先輩助手の多田道太郎に連れられ、大阪府茨木市安威に住む富士正晴を訪ねたのを機と する。以来、新聞や雑誌に掲載されたたがいの文章についての感想から、共通の友人や日々の生活風景等々についてまで、呼吸のあった書簡のやりとりがつづく ことになる。

 初期の書簡では、二十歳近く年上の富士正晴が、自分のスタイルを見出(みいだ)すべく模索中の著者をさりげなく励まし、奮い立たせようとするさま が如実に見て取れ、まことに快い。やがて著者がさまざまな逡巡(しゅんじゅん)をふりきって、スカトロジーをテーマとする連作に着手するや、富士正晴も薀 蓄(うんちく)を傾けてこれにエールを送る。この時期の往復書簡には、ついに自らの鉱脈を掘り当てた若い著者の昂揚(こうよう)感と、富士正晴の「よく ぞ、やった」という深い理解と共感が美しく交錯しており、読んでいて爽快(そうかい)だ。

 これを転換点に、両者は書くことの「しんどさ」を愚痴りあい、心身の不調を訴えあいながら、それぞれ綿密な構成をもつ著作を次々に発表してゆく。 総じて、この往復書簡の魅力は、両者ともいかなるときも大仰になることなく、ユーモア精神たっぷり、さらりとした筆使いで、近況を語りあうという風情を 保っているところにある。これは、両者がノンシャランな遊び心をよしとする美学を共有していることによるものであろう。

 実のところ、著者と富士正晴の交友は単に個人と個人の関係によるものではなく、桑原武夫をはじめとする京都の学者グループ、著者が積極的に関(か か)わりつづけた「日本小説を読む会」、富士正晴を中心とする同人雑誌『VIKING』等々、いくつものグループがクロスオーバーした地点において育(は ぐく)まれたものだった。著者や杉本秀太郎、高橋和巳など友人の多くは「読む会」の会員であると同時に、『VIKING』の同人でもあった。関西において こうした形で、ある時期しかも長期にわたって、文学を語る場、作品を発表する場が、重層的に存在したことじたい、稀有(けう)の「文化の厚み」を示すもの だと思われる。そうした文学的磁場のありようが生き生きと映し出されていることも、本書の大きな魅力である。

 さらにまた、書簡や随所で引用される作品を通じて浮かび上がってくる富士正晴のイメージには、遊び心にあふれながら、それとはうらはらに、まこと にきびしく硬質なものがある。富士正晴は酔うために大酒を飲みつづけた人だった。魏(ぎ)末、「竹林の七賢」のリーダー格だった阮籍(げんせき)も大酒飲 みであり、「阮籍は胸の中に塊(かたまり)がある。だから酒で洗い流す必要があった」と評された。富士正晴もまた塊を抱えた人だったのだろうか。著者は、 本書全体を通して、複雑に屈折した富士正晴像を多様な角度から、まざまざと描き出している。

毎日新聞 2008年8月10日 東京朝刊

6/29/2010

日本小説を読む会 

読書会ノススメ
「日本小説をよむ会」のこと
  國重 裕

 いまから紹介するのは、京都で400回以上も続いた日本小説の読書会の話である。

*     *     *

 1958年、当時ベストセラーだった五味川純平の『人間の条件』の人気の秘密を分析すべく、京都大学人文科学研究 所(人文研)のメンバーを中心に自由な討論会を開いたのが、その後38年間つづくことになる「日本小説をよむ会」(以下「よむ会」)のはじまりである。当 時の京都は、「日本映画を見る会」、「ぬーぼーの会」(二十世紀小説を読む会)、「バルザックを読む会」など会が百花繚乱の状態だった。その核にルソーや アランなどの翻訳でも知られる桑原武夫を中心とする人文研の共同研究があったことは大きいが、よむ会は、早々に研究家肌の人は顔を出さなくなり、かわって 小説好きが集まった。以後、1996年、第410回例会で幕を下ろすまで、月に一度、明治から現代にいたるまでの日本小説を一作を取り上げ、担当者の報告 のあと自由な討論を行うスタイルでつづいた。メンバーには多田道太郎、高橋和巳、杉本秀太郎もいたが、会社員や主婦も参加していた。

 読書会というと身構える人もいるかもしれないが、よむ会には日本文学の専門家はいなかった。よむ会はけっして研究 会、勉強会ではなかったのである。文学史に寄りかかった「高尚な」発言は無視され、素人の感想、非常識な発言が歓迎された。よむ会が別名「笑う会」と呼ば れたゆえんである。このようなスカタン精神を大いに鼓舞する姿勢は、冨士正晴らの神戸の同人誌『VIKING』に通底する。

 よむ会では、「聴講」は許されず、積極的な発言が求められた。既成の評価にとらわれず、自分の感じたことを自由に 述べる精神が、よむ会を支えた。よむ会の「憲法」には「笑わせ、笑われることこそ美徳である(会のノンシャラン精神)」とある。思ったことは忌憚なく、 はっきり口に出して言う。ある作品(近年ベストセラーになり、吉永小百合主演で映画化された作品だ)については、「ななめ読みしても差し支えなかった」、 「まとめて宅急便で作者に送り返そか」といった具合に手厳しい。もちろん無責任な放言が許されるわけでもない。「アンタ、なに言うてんの」、「ほんまにそ れでエエんか?」とばっさり斬られることもある。大げさな作品論ではなく、「光る細部」にまなざしを注ぐ読み手が多かった。

 会報を作るようになったのは1960年、会の発足から約二年が経過してからである。会報は、報告者の読み筋を示し た小文と、討論の記録、エッセイ、雑文よりなる。記録には録音機のたぐいは一切使用せず、記録者が当日のメモを基に作成した。記録に正確さ、公平さは保証 されなかった。(これも『VIKING』の例会記と同じ)。たとえば1989年1月の第329回例会で取り上げられた村上春樹『ノルウェイの森』の討論記 録の一部を紹介しよう──山田「このセックス描写の稚拙さは意図的だと思うが、どうしてこんな」植田「あんなん最近の少女マンがにようけあります」山田 「へえ、こんど貸してね」本田「荷風の『四畳半…』読むとマスターベーションしたくなるが、これを読むとだれとでもヤリたくなる」(と大胆な告白をおこな い、ヨーガ行者のカンロク(?)を示す)──といった具合である。主に山田稔がペンを執った討論記録を読むのも、会の楽しみの一つであった。会報には、メ ンバーのほか、地方にも埴谷雄高、黒井千次ら「愛読者」が多数存在していた。

 初期の会報では、その名も「のんしゃらん」コーナーがあり、メンバーが匿名で戯文を草し、作者の当てっこを楽しん だ。たとえば1960年の会報8には「ね小便と文学の関係」というタイトルのものがある。「こころみに、今あなたのそばに坐りここぞとばかり(あとで痔の いたむのも忘れてサ)笑っている男性もしくは女性を問責してはいかが。君が厭わしくも甘美なる、かの夜尿症は、芳紀そも何才の暁に及びしかと。また後遺症 は如何と。暴露されたる現代文学青年の裏面地図にあなたは驚倒し、そしてむずむずしませんか。イヤヤワ、コノヒトラ。イマデモオーバーノ下ニ湯気コモッテ ルノチヤウヤロカ。(後略)」作者は「何風」とある。ちなみにこの回取り上げられた作品は井上光晴の『死者の時』であった。

 二次会は、「『会』のもっとも重要な部分である」とされた(「一次会のみの喰い逃げは恥ずべきである」)。ここ で、一次会で尽くせなかった議論が、さらに蒸し返され、酒の勢いもかりて、大論争が繰り広げられた(もちろん、けしかけ、冷やかし、笑っていた者がいたか らである)。会場は、時期によって異なるが、最終的には川端二条にある居酒屋の離れで行われた。店では、品書きから三品まで選ぶことができた。飲み物は酒 類だけで、これは無制限に注文することができた。ジュースなどは認められなかった。勘定の支払いは平等に割り勘にしたので、飲めない者にとっては一種の罰 金である。もちろん、三次会、四次会と場所を変えて駄弁りつづけたこともあった。山田は自分が注文した三品と一人頭の勘定を丹念に会報に書き残した。

 非公開で、原則として新入会員を認めないこの会に筆者がもぐりこんでいたのは、よむ会の最後の三年間だけだった が、会がこれだけつづいたのは、ひとえに「ノンシャラン精神」のおかげだと感じる。年齢はもちろん、職業や性別に関係なく、ただ一つの小説を前にクリクリ と読み筋を競い合う遊び心が会を支えたのだ。会の終了とともにまとめられた「日本小説を読む」上下二巻(400回分の報告者の報告と討論記録を収録)を読 むと、会の発足時から安保闘争、大学闘争など「政治の季節」を経て、バブル期にいたるまで、時代の空気を微妙に反映させつつも、最後までノンシャラン精神 を貫いたことが分かる。ともすれば胡散霧消しがちなこの精神を保ちえたのは、実質的な会の世話人だった山田稔の功績だろう。

 よむ会が幕を下ろした理由が会員の高齢化だけではなかったことはいうまでもない。会を生み出した精神風土から遥か 遠い今日、まったく同じような読書会が可能かどうかも分からない。その意味で「日本小説をよむ会」は時代の賜物であり、京都という土地柄ならではの読書会 だったともいえる。とはいえ、よむ会のメンバーの有志が「日本小説を楽しむ会」を50回ほど重ねていること、また筆者自身が「世界小説をよむ会」を主催し ており、なお活発な議論がつづき、笑いが絶えないことも書き添えておきたい。

● 國重 裕(くにしげ・ゆたか)
1968年京都生まれ。龍谷大学講師、作家。共著に『中欧─その変奏』(鳥影社)、詩集に『彼方への閃光』(書肆山田)ほか。

6/20/2010

疑う力


ある人が、民衆というか、
市井の人というかが権力と戦う武器として、「嘘をつく」「疑う」「逃げる」の三つをあげているんです。こ れは道徳教育的には一番だめなこととされることですよね。でも、わたしはやっぱりそこにしかないような感じがします。疑う力をもう一 回復活するしかないだろうと

6/19/2010

Kenneth Tarver


Fra Diavolo by codytomaswilliams.

Kenneth Tarver has his makeup done for the main lead role closing night of the Opera Fra Diavolo, playing at the Opera-Comique in Paris, France. February 4, 2009./©Cody Williams.

6/07/2010

パリ 山田稔


この街では、住人のだれもが異邦人として、孤独をおのれの影のようにひ きながら暮らしていた。一方では他人とのかかわりを慎重に避け、たがいに警戒し合ってすらいるそれらの人々が、しかし他方では、他人か
らの呼びかけをひそ かに期待してもいることを、やがてわたしは知るようになった

6/01/2010

パリ 山田稔

パリの異邦人                                            

                                 

 昨年暮れに出た島京子のエッセイ集『書いたものは残る――忘れ得ぬ人々』*1は、富士正晴高橋和巳島尾敏雄ら 「VIKING」同人を初めとする文学仲間たちとの交友 録で、その冒頭に登場するのが山田稔である。とはいってもこれは一九六一年の日記に出て くる、当時の京都大学学年 一の秀才で(二番が高橋和巳、四番が杉本秀太 郎であったという)、「なかなかのハンサムで美声」であった若き日の山田稔の印 象的なスケッチであるけれども、わたしが思わず膝を打ったのは、著者がかつて追分の民宿でひと夏を過ごした折にたまたま同宿していた平岡篤頼の言 葉に、である。

 平岡篤頼は彼の地でゾラの『ナナ』の翻訳に勤しんでいたのだが、ひと足先に『ナナ』の翻訳を刊行した山田稔に談たまたまおよび、「いやあ、うまいんだなあ、山田稔さんの“ナナ”は。実に自然で、いきいきしてて(略)下町のようすも、山田さんの手にかかる と、まるで子供が初めて見たものに、感動するときのように、彫りが深くなっているんだもの。さすがだなあ――」と感歎しきり。さらに山田稔の創作についても、

「どう思います? たとえばさ、資質まるだし、という作家もいますね。エネルギー主義のような人もいる。山田稔さんのものは、そんな力みなんかと関係なく、至極モーションの少ない自然体なんだけど、どうし てあんなに、いきいきとしか云いようがない、人や街のたたずまいが描出されるんだろ。ぼくなんか、とてもおよばないなあ――」

 島京子は「山田さんが創り出した文体が、ものをいうのでしょ、それにフランス的エスプリ」と 応えるのだけれども、この応答にいわば山田稔論のエッセンスが集約されているといってい いだろう。すなわち――、山田稔の描く人や街のたたずまいは実に自然で生き生きとしてい て、それはかれの文体とエスプリのしからしむるところにほかならない、と。ようするに、山田稔論 を試みるものはだれもがすべから くこのテーゼをいかに肉づけすべ きかに腐心することになるのである。


 山田稔は一九六六年に初めてパリに滞在する。パリから航空箋で 書き送り、「フランス・メモ」の総題で「VIKING」に掲載された作品を中心に纏められたのが最初の作品集『幸福へのパスポー ト*2であ る。古い街のたたずまいやそこに暮す人々との交流をえがいた作品はいずれも小説ともエッセイとも断じがたく、山田稔自身あとがきで小説という形式にしばられずに自由に書いた、小説よりも「散文芸術」が念頭に あった、と記しているように、たんに散文と呼ぶのが似つかわしい。集中の一篇「残光のなかで」は、バルザッ クモリエー ルの墓のあるペール・ラシェーズの墓地、ゾラの墓があるモンマルトルの墓地を訪れたさいのささやかな挿話をプロローグに、ゾラの別荘で催された 「ゾラをしのぶ会」の講演に招かれたエレンブルグのポルトレを印象深く描き出す。

 エレンブルグはなまりのあるフランス 語で、ゾラとチェーホ フとは異なるタイプの作家だが二人には共通点がある、それは二人とも真実の味方であったということで、社会的良心がなければすぐれた芸 術家とはいえない、と熱を込めて語る。講演が終わり庭に出た「わたし」は、ひとり所在なげに立っているエレンブルグの姿をみとめ、かれのはいてい るだぶだぶのズボンに目を奪われる。


 「しかもそのズボンはだぶだぶであるだけでなく異常に長く、靴のかかとからはみでて、すくなくとも五センチは地面に垂れ下っているのであ る。(略)なおしばらく観察をつづけるうちに、わたしはこの老作家の無表情とみえた顔が、ときおりしかめられるのに気づいた。彼は不機嫌のようだ。なぜだ ろう。あの長すぎるだぶだぶのズボンのせいだろうか。いや、そうではあるまい。わたしには、エレンブルグがあの異様なズボンをはいているのはわざとのよう な気がしてくるのだった。彼の孤独な姿があらわしている何か依怙地なもの――あのズボン は、現代の細いスマートなズボンどもへの当てつけではないだろうか。」


 山田稔は、いや「わたし」はだぶだぶのズボンに、そう、あまりにも些細な 事柄にかかずらいすぎていると思われるかもしれない。だが「わたし」の観察はさらに執拗をきわめ、老作家の表情に「なにか気味の悪いもの」を嗅ぎつけずに いない。それはかれの「きつい眼」からくるもので、その眼はスターリ ン時代の激しい権力闘争の場を切り抜けてきたかれの処世に由るものではないかと想像する。「わたし」がゾラに惹かれるのはエレンブルグとは異なる 暗さがあるゆえにだが、エレンブルグもまた、チェーホフやゾラに惹かれるのは、「社会正義の味 方云々ということよりもむしろ、ゾラのもつ暗さ、おそらくはあらゆる文学者に共通の暗さにエレ ンブルグ自身がひそかな共感をいだいているからではないだろうか」と思う。「わたし」の観察眼は、だぶだぶのズボンといった一見些細な事柄の背後に二十世紀の歴 史の暗部を透かし見る。閑散とした庭にひとり佇むエレンブルグと、庭園の中央に立つ残光を浴びたゾラの胸像とをツーショットにおさめ、短篇は読者の胸に重 い余韻を残してしずかに幕をおろす。

 アルフォンス・アレー(山田稔訳『悪戯の愉しみ』がある)の故郷を訪ねた 「オンフルールにて」でも、「わたし」はアレーの表情に陰惨なものを読み取り、その地で出会った老画家の孤 独に反応する。『幸福へのパスポート』へ寄せた埴谷雄高のこ とばがこの本の、そして山田稔の散文の特長を語り尽しているといっていい。


 「山田稔の作品のなかでは、窓も部屋も樹の枝も広場の石畳も、そして、ひ とびとも、すべてが孤独のなかで他物から親愛と交感をもとめて、静かに息づいている。こ の屈折豊かで明晰な文章から、私達は、人生とは、事物とのまぎれもない関係であり、そしてまた、事物との関係をさらに越えようとする心のさまざまな動きに ほかならないことを、繰返し啓示されるのである。」


 山田稔は、異邦の地で情緒の伝達がままならぬ孤独に屈しないためには書くことが必要だった、とあとがきに記している。「それはほとんど生理的な必 要だった。書きながらわたしの身体はふるえた」と。そうした精神状態がことさらに他者の孤独に 感応させたのだろう。書くことによって精神の危機を乗り越えたモ ンテーニュの『エセー』にどこか通い合うような気がするのもそのせいかもしれない。

 七九年七月、パリでの二度目の滞在を終えて帰国した山田稔は、一年後に雑誌「文芸」誌上で短篇連作「コーマルタン界隈」*3を開始す る。ここでも「私」が出会い、仔細に観察する、パン屋のおかみ、ポルノ映画館の支配人、犬 を連れた娼婦らは、だれもが胸の底にそれぞれの孤独を抱えた存在にほかならない。連載が 終了した翌々月に同誌に発表したエッセイ「わが街コーマルタン」で、山田稔は次のように 書いている。


 「この街では、住人のだれもが異邦人として、孤独をおのれの影のようにひ きながら暮らしていた。一方では他人とのかかわりを慎重に避け、たがいに警戒し合ってすらいるそれらの人々が、しかし他方では、他人からの呼びかけをひそ かに期待してもいることを、やがてわたしは知るようになった。」


 呼びかけ(call)に応答すること、そして書くことによってかれらを思い出し/呼び戻すこと(recall)、山田稔の散文が読む者に親密な感情を呼び起こすのは、おそらくはそうした孤独な者どうしのセンチメントの交流がひそやかに息づいているからにちがいあるまい。

                        (『國文學』平成二十年四月臨時増刊号掲載)

4/22/2010

beach

4/17/2010

4/13/2010

2/23/2010

FOR YOUR LONELY HEART / YOSHIKO GOTOH

FOR YOUR LONELY HEART / YOSHIKO GOTOH
Label:IMPEX RECORDSCD品番:IMP-3302発売日:2009/06/12,13税込価格\3,150

FOR YOUR LONELY HEART
YOSHIKO GOTOH
後藤芳子・佐藤允彦・中牟礼貞則・加藤真一
1, You’ve Changed2, I’ll Remember April3, You Don’t Know What Love Is4, It Could Happen To You5, I Wish I Knew6, I Remember You7, In The Wee Small Hours Of The Morning8, All Of You9, Darn hat Dream10, In Summer(Estate)11, Violets For My (Your)Furs12, Old Devil Moon13, How Do You Keep The Music Playing?

後藤芳子 ダンスホールやキャバレーで踊るための音楽だったスウィングジャズ。それが聴くためのモダン・ジャズと呼ばれる「芸術」に昇華したのは50~60年代のことだ。冷戦時代の到来を反映した文学のビートニク、映画のヌーベルヴァーグ、そしてバップと呼ばれるジャズの革命が始まった。

後藤芳子
 ダンスホールやキャバレーで踊るための音楽だったスウィングジャズ。それが聴くためのモダン・ジャズと呼ばれる「芸術」に昇華したのは50~60年代のことだ。冷戦時代の到来を反映した文学のビートニク、映画のヌーベルヴァーグ、そしてバップと呼ばれるジャズの革命が始まった。

後藤芳子(ごとう・よしこ)1933年東京生まれ。米国で活躍するギタリスト増尾好秋の父、増尾博のグループに招かれデビュー。ジャズボーカル一筋に58年。早くから米国で武者修行し、巨匠レイ・ブラウンとの日本人初の共演作もサンフランシスコ滞在中にロサンゼルスで録音。新作は盟友の佐藤允彦が音楽監督を務めた。後進の育成にも長ける。
 まさにその時期、1951年。18歳の後藤芳子は、銀座でデビューした。
 「大学生の兄がハワイアンバンドを持っていたので、高校の時から歌わせてもらっていました。ナンシー梅木さんに憧れて、ドリス・デイなどをコピーしたものです」
 たちまち進駐軍キャンプで評判になった。
 ファンの将校からプレゼントされたジューン・クリスティの歌に刺激を受け、スウィングからモダンへの大きな変化を感じ取った。
 「それまでになかったコード(和声)の使い方に、とても魅力を感じて、エラ・フィッツジェラルドやアニタ・オデイを夢中でコピーしました。新しい時代が始まる予感のようなものがあったように思います」
 そして、同時期にモダンジャズを追求し始めていた渡辺貞夫(サックス)、故人の宮沢明(サックス)や富樫雅彦(ドラム)ら、日本のジャズ界に大きな足跡を残す革命戦士たちとの交流を深めて行く。
 ジャズが大衆の娯楽から芸術に進化する。その過程を女性シンガーとして生きた後藤は、華やかさやスターダムとは無縁だった。
 「とにかくあの頃の彼らは格好よかった。お金も仕事も無く、みんな貧乏でしたが、がむしゃらに新しいものを生み出そうと、必死にもがいていました。有名な『モカンボ』や『銀巴里』でのセッションにも行っていましたが、彼らは自分たちの演奏に夢中で誰も歌わせてくれなかったわ」
 そう言って笑う。
 交流を続けた八木正生(作編曲・ピアノ)、山屋清(作編曲・サックス)、佐藤允彦(作編曲・ピアノ)らも日本のジャズを世界的なレベルに押し上げた戦士たちである。八木と山屋はこの世を去ったが、佐藤との交流は今も続いている。
 「自分で考える歌が40%、バックのサウンドが60%です。音で支えてくれるミュージシャンのサウンドから導かれて、私の音楽が完成します。だけど、本当に彼らは厳しかった」
 後藤が受けた刺激や協力もさることながら、チャレンジを恐れなかった革命戦士たちを励まし、支えたのもまた事実である。
 「ウルサい女と思われながら、『ちゃんとしなさい』なんて叱ってました。生活はだらし無いところもあったけど、音楽にはみんな真面目で真剣でした。彼らのおかげでいまの私があるんです」 
 「ヨッチン」と呼ばれて革命戦士たちから愛された後藤。そのミューズの歌には時代をともに駆け抜けた同志たちへの尊敬と思慕がたくさん詰まっている。(高梨義之撮影)  

1/25/2010

In summer (Estate)

In summer...I miss you more than any other season my heart has lost all thought of rhyme or reason without you it's like winter in my heart In summer...the memory of things we did together is stronger than the trials we had to weather without you,i feel winter in my heart it's the end of life daydream like plucking all the petals from the roses like burying all the secrets love discloses like stopping songs of birds before they start In summer...when once again feel that old desire as you return to set my soul on fire Please darling, take the winter from my heart (second bridge) I feel you always near me in every song the morning breeze composes in all the tender wonder of the roses each time the setting sun shines on the sea in summer... and when you sleep beneath your snowy cover I'll keep you in my heart just like a lover and wait until you come again to me